12.11.2009

Inglourious Basterds

クエンティン・タランティーノ監督の映画イングロリアス・バスターズを観ました。観終わった時の感想は、いろんな映画を何本か一度に観たような感じでした。かっこ良くもあり、感動的でもあり、意味深でもあり、滑稽でもあり、爽快でもあり、お下劣でもあり、って感じです。ストーリーなど破綻したようなところは感じませんでした。大変うまく撮られた映画だと思います。映画文化のための映画であるとも感じましたし、映画好きの人には最高の一作と言えるかもしれません。
私の印象から無理やり一言でいうとクールな映画といえます。そして、好きか嫌いかと言われれば好きですし、もう一度観ておきたいです。しかし、人には勧められそうにはありません。人を殺す場面がきつ過ぎます。それがあるからこそこの映画の意味を考えることに大きな意義を感じるのかもしれません。いろいろなことを考え感じることの出来る映画だと思います。

10.27.2009

久しぶりの大阪、梅田。




梅田での阪急百貨店のパワーはすごいと思います。
立替中の阪急梅田ビルを見て梅田周辺は不況の中でも活気があると思った。百貨店の中も人々で賑わっていたように思う。あまり百貨店には行かないので他の百貨店と比べられないけれども。

しかしながら、百貨店業界で見ると経済の停滞で売り上げは12年連続で落ち込んでいるとのことで、スーパーやコンビニも同様に不振の様子です。購買の元である収入が上がらないということもありますが、インターネットの普及も原因のひとつだと思います。ネットでの購入は便利で価格面でも一歩抜けていることが多いのですが、もうひとつ、買い物選びにあまり失敗しなくなったということもあるのではないかと思います。インターネットで商品の評価が客観的に捕らえ易くなったことは購入側にとっては本当にありがたいことですが、特に実店舗の販売側にとっては減収につながっているのかもって思います。

この間久しぶりに靴を買いに京都市内の店に行ってみました。靴はインターネットではちょっと選びにくいということもあったので。販売員に聞いてもその靴の良いことしか言ってもらえないし、長時間の履き心地が少し不安でしたが形が気に入ったので買いました。やはり、後日それを履いて外出したときかなりの靴づれで帰りはタクシーに乗って帰りました。形が気に入っているので仕方ないという気持ちですが、買うときにある程度分かっていれば初めから覚悟できるし、あるいはもっと別のものを選んだかもしれません。近いうちもっと履き易くていいものを見つけたらすぐに買ってしまうのではないかと思います。靴業界にはいいことですよね。
次からは店で買わないといけないものも十分インターネットで下調べしてからにしたほうが賢いですよね。

10.09.2009

空気人形という映画

日本で住んでいる私にとって、最も今を現わした映画だとおもったし、ずっと感じて来たことを最もストレートに、直視しさせてくれた、つまり、何も隠し事も無く今自分達が直面していることを現わしていると思った。この今の世界での新たな挑戦の示唆になると思う。

自分の誕生はこの世に意味があるのか、みんなに歓迎されているのか。それとも、みんな感情のない空気人形として、意味を考えたりせずに単純に仕事をして生きて行くことが利口な生き方なのだろうか。

私は可能な限り意味を見出だして生きて行くことが感情をもつ人間として健康的で健全な生き方だと思う。それにはいろいろなチャレンジがあって、乗り越えて行く価値があるし、それを知らぬ振りをして生きて行く時間は無くさなければならないと思う。

どうすれば人間本来の生き方が出来るのか。それが出来ている人は生き生きとした輝きを持って生きていると思うし、そのためには、こころに、理想に繋がるイノベーションを起こして行かなければならないと考えています。お金と地位のためにそれを犠牲にすることが利口な生き方と割り切って活発に生きて行ける?そんな時代があったとしても、それは終わってしまったと思っています。

そういうことを考えたり感じたりするのに、この映画はあまりにもというか本当にストレートだった。

(後日)今日もう一度この映画を見た。あまりにも印象的だったし、自分にとってどういう意味があるのかもっと知りたかったから。主人公の空気人形はなぜ最後に自ら死を選んだのだろう。もう愛する人がいなくなってしまったからだろうか。理由は分からないが、私は彼女が感情を持ったことで空気的な存在から全く対極の存在にまで成長したのだと感じた。つまり、死というものさえ正面から接っし感じることのできる感情を持ち得たのだと。

映画を見ていて誕生日の話になったとき、今日は自分の誕生日でもあることを意識し、うれしくもなった。誕生について考えるすばらしい映画と日のめぐり合わせに。

9.07.2009

自分のこれから。

日本人はよく若くみえて年が分からないと外国の人に言われるが、多分みえるだけではないように思う。それは、これまで度々感じてきたことですが、昨日また、”あれっ、やっぱり”、て思ったのでここに書いて置こうと思った。

それは英会話練習のCDを聞いていた時でした。日本語の日常的な違和感のない普通の会話言葉で、そのすぐ後にネイティブスピーカによる同じ意味の英語を聞くのですが、そのとき日本人のしゃべり方が愛嬌のある可愛らしい感じなのに、外人のしゃべる話し方は日本人の日本語に比べて大人な響きだったのです。同じ意味のことをしゃべっても、みた目と同じように年の差を感じるのです。言ってしまえば、日本語会話のパート(特に女の子のパート)が悪い意味ではないけれど幼い感じがします。実際、私は日本人であるためか日本人のパートの方が楽しく聞けますし、そちらの方が好きです。大人な響きは面白くも楽しくもない。外人のパートが全部楽しく聞けないということはありませんし、臨場感もあってそれはそれで楽しく聞ける部分も多いのですが、子供な感じと大人な感じという日本とアメリカの特徴は全般的にあるのを感じました。

このことと今までの経験から、日本人の特徴と外人、例えばアメリカ人の特徴をイメージしてしまわずにはいれません。そう言えば日本とアメリカの政治家の演説も同じことが言えることを感じます。まず、普遍的な人の命とか権利、国のあり方といった土台となるものを日本人の政治家からは感じることが難しい。土台なしに目先のことに右往左往しているように見えます。土台がないので新しい時代にどうしていいのか分からず、今まで通りアメリカの土台の上で経済や他国との協調や社会福祉などについて小手先の政策を国民にアピールしているように感じます。また、例えば自民党は多くの国民が変革を望んでいるのにそれを察知できず、国民の考えを分かった自己改革ではなく民主党の悪口ばかり言っていたのは本当に子供っぽい。自己改革をしていくのに、閣僚を友達で固めるようなこれまでの首相は頼りなく感じます。アメリカのオバマ大統領は大臣を友達から選んだなんていうことはないように思うのですが。あれだけけなし合ったヒラリーさんをも互いに理解しあった上で重要なポストに就けています。

口調や見た目が子供っぽいのはまったく悪いことではないけれど、やっていることが幼稚で意味のないことであるというのはいいことではないと思います。友達と徒党を組んで安心できればそれでいいという気持ちは卒業しないといけないと思います。絶えず善なるもの、善なる精神に問い合わせる姿勢を土台に持って歩んで行けるよいうになりたいと思います。

8.14.2009

広島 平和記念公園 08.14.2009




広島の平和記念公園に行ってみました。今までまともにしっかりと見学したことがなかったし、行ったことがあってもただ風景をきれいな公園として見ただけで、全然行ったことにはなっていなかったので。今回が初めてといってもいいと思う。実際、新幹線で行ったのは初めてでしたし、新鮮でした。

まず初めの印象は外国人が多いということ。東南アジア系、ヨーロッパ系ともに偏りなく多かったと感じました。目にした人々の三分の一か四分の一位は外国人だったように思う(実際はもっと少なかったのかもしれませんが)。平和を目的に、国際的に開かれた公園であると実感できたし、そのためか歩いていてうれしくもあり、気持ちよかった。きっと天候のせいもあると思いますが。八月らしい暑さの快晴でした。

今日、原爆投下にたいする気持ちが鮮明になった。。
今までは可哀そう、二度と繰り返してはならない悲惨な出来事、でも戦争なので仕方のない面もあったのかも、アメリカを一方的に責めることはできないというような教科書的、常識的なことが頭にあっただけでした。これまで戦争について勉強したことがあまりないので、今日感じたことはまた今後勉強するにつれて変わっていくと思います。でも今回何を感じたか。それは、人を殺したら殺した側が絶対に悪いということ。これは、どんな理由があろうとも殺した側が悪い。日本も歴史の中で非常に多くの人々を殺してきた。なので、人を殺したことについて日本は絶対に悪い。それは明確にはっきりとその人々に対して謝らなければならない。広島の場合、アメリカははっきりと広島の犠牲者に謝らなければならない。このことを強く感じました。
とりわけ、原爆が投下された時期は、アメリカは日本の敗戦はもう時間の問題であり、ソ連も日本に対して参戦攻撃することは分かっていたのです。なのに原爆実験投資の成果をアメリカ国民に見せるため、世界の国々にアメリカの軍事の強さを見せ付けるため敢えて広島や長崎を使った。許しがたいことです。

人々はみんな命を持った生き物である、つまり、健康に生きることが何よりも尊く優先される。それは誰にも中断あるいは止める権利はないし、それを正当化するいかなる理由もない。自己防衛を超えた、自己顕示欲のための大量虐殺、原爆の投下は人間として最もしてはならない、最も神を無視した取り替えしの付かない行為である。

アメリカの知識人や教育を受けた人々はどうやって今まで原爆投下を正当化し国民を穏便に誘導して来たのだろう。パールハーバーのことがあるのだから当然ということになっているのでしょうか。


今日、初めて京都から電車で行ったために広島駅から平和公園まで辿り着くのに、途中ちょっと不安になってしまったのですが、路面電車でたまたま隣に座っておられたおばさん(60~70台?)が降りる駅を教えてくださいました。ありがとうございました。今日はこれからお墓参りに行くところだと私が路面電車を降りる直前に言っておられました。私は降りた後、もしかしたらあのおばさんは原爆で亡くなられた方のお墓へ行くところだったのかもと直感しました。なぜなら別れ際に私を早く降りるように押された手の感触が優しいながらも強く、そのときの目の表情からもなにか強い感情が伝わってきたからです。
私は広島駅から路面電車に乗らないといけなかったのですが、女性の駅案内さんの言うことを聞き間違えたのかJR在来線に乗ってしまい、広島駅から二つ目くらいの横川駅まで行ってそこで間違っているような気がしてもう一度駅員さんに尋ねたところ、やはり路面電車に乗り換えないといけないということで、横川駅で乗り換えました。そして途中から乗って来られたそのおばさんに尋ねてみたのです。
ほんのちょっとしたことでしたが、私の心の中で妙に印象的な出来事となりました。上品な思慮深い感じの方でしたので私のような不躾な者とは会話の釣り合いが取れないと思いましたがもう少し世間話でも何でもいいからしばらく時間を一緒にできればと思いました。

今日は八月らしい太陽の照りつける快晴の日となりました。公園の風景を写真に撮っていて、原爆の当日もこんな晴れた日だったんだろうなと思いました。ドームの600メートル上空で原爆は爆発したそうです。その位置が最も効果的な爆発点だったのでしょう。公園にいて、本当に許せない悪魔の出来事だと強く感じました。日本のリーダーは国民を代表して世界各地を尋ね、命を奪った人々に対して心からはっきりと謝罪してほしいと思います。戦争なんだからお互い様、相手国が謝ったらなんていう考えはありえない、あってはならないことです。そして殺戮を実行するように仕向けた国は、国民にも謝罪し痛みを分かち合うべきではないでしょうか。

日本はパールハーバーへ何度も行って何度も犠牲者に謝るべきだと思います。それは日本の為に亡くなった日本人兵士を侮辱することにはならない。兵士たちも生きておられたら同様のことを考えられると思います。日本人を含む世界中すべての犠牲者に謝るべきだと思います。それが世界から尊敬されるリーダーへ向けての出発点となります。


7.13.2009

私は日本人。

『・・・ネットの活用が遅れているのが行政や医療、教育などの公的な部門だ。個人情報保護の問題が足かせになっているとし、興味深いデータを示した。パソコンへの侵入被害は先進国で日本が一番低いのに対し、ネットに対する不安感は日本が飛び抜けて高いという点だ。
 ネットへの不安と活用度との間にも相関関係がある。グラフで示すと、安心と感じているデンマークやスウェーデンなどでは活用が進んでいるが、日本はその対極に位置し、ネットに対する潜在的な不安が活用を妨げているという。・・・』

今日の新聞記事からのものですが、これを読んでいてやっぱりそうなんだという感じがしました。というのは、豚インフルエンザのときのことや、未だに根強い銀行預金信仰のことがこころに残っているからです。なぜそんなにも一律に不安に陥りやすいのか。少し極端な性質のように思います。

今年のインフルエンザのときは、全国的にマスクが足りなくなるくらい多くの人がマスクを着用していましたが、たとえばアメリカでは患者数の多い地域でもマスクをしていた人はそれほど多くなかったようです。

資産運用では日本人は銀行に預けていないと安心できないので、安い利息に関係なく生涯を通して、銀行中心の資産運用(運用といえるのかわかりませんが)をしてしまうようです。

これは、日本人が他の国の人よりも賢明だからではなくて、リスクとの付き合い方が下手というか、不健康だからと思ってしまいます。改善策を考えつつも何らかの原因(根っからの性質?)で、不安を伴う偏見を払拭できず、ズルズルと今までして来た通りのやり方(或いは周りの人と同じやり方)になってしまっているように思います。いずれはその悪循環に身をもって気づき少しずつ変わっていくと思いますが。

インターネット、経済、医療などについて起こる事実を客観的に見極めて、偏見や感情になるべく左右されず、健全な行動に移せるようにと思いますが日本人には一筋縄には行かないことが多いです。もしかしたら、スポーツでのプレッシャーに弱いといわれるのも根っこは同じなのかもって思います。
リスクや不安材料をどう受け止めて、事実に基づく健全な行動にどうつなげるのか。自分の行動を少し離れたところから診て見たいと思います。

5.10.2009

Learning English は筋トレから

英会話が初心者レベルにある人はどうやって勉強していくのがベストなのでしょうか。特に、日本語であれ読書の苦手な人、国語力に自信のない人であっても英語を身につけたい人はどうするのがベストなのでしょうか。もちろん人それぞれ自分のやり方を見つけていくのがいいのですが。

私は4年半ほどアメリカに滞在したことがありますが、私のコミュニケーション能力の貧しさもあって残念ながら英語はそれほど上達しませんでした。もちろん、日々の最低のコミュニケーションは大丈夫になりましたが、挨拶程度に近いというかその範囲を超えたもっと意味のある会話を無理なく出来るようにはなりませんでしたし、聞き取りも出来ませんでした。実践はあくまで実践。数年の滞在を経験する機会があっても、無計画な実践の積み重ねでは効果は非常に少ない。具体的な目標と地道なトレーニングがなければ実践で活きることは出来ないということを身をもって証明してしまいました。 実際、英語が出来なくても生活に困るということは少ないですし(ストレスは溜まりますが)、滞在して10年以上でも、特にラテン系の人たちに多いのですが、英語が出来ない人が大勢いました。そういう意味でもアメリカの大きさ、懐の大きさがわかります。

当初、会話のぜんぜん出来ない私でもアメリカに1年いるだけでいわゆる”ペラペラ”になれると思っていました。しばらくして、そこにいるだけではだめだ何かしないとと思ってもどうしていいのか分からず、いっしょにいた友達の強い勧めで分けの分からない実験音のような音だけのCDを一緒に買ったりして、それを聴いていれば英語が聞き取れるようになれると信じてやってみたり(たとえ信じていなくて半信半疑でも、そんな魔法のようなものがあるのならと)したこともありました。そんなわけで、英語の勉強という意味ではいわゆる上滑り状態、空回り状態に終始陥っていました。

日本に帰ってから初めて英語というものの勉強の仕方(文法とか会話法とかではなく)が書いてある本を読んでみました。書いてあったことの一つに、例えば語学留学は遠回りというか意味があまりないとはっきり書いてあり、私の滞在経験から感じたことがそのまま書いてありました。滞在自体は自分の人生の新たな起点としてかけがえのないものとなりましたが、大きな目的の一つであった英語を身につけるという意味では、事前にしっかりそういったことを調べて置かないといけないと思いました。 準備期間を作らず渡米したのは良くも悪くもって感じです。

とは言っても、英語を話す上での土台みたいなものは少しだけは身に染みているようですので、それを無駄にしないように今自分なりに定評のある本を読んだりして、”身に付ける”ということにフォーカスして合間の時間に少しずつ勉強しております。

最近思ったことですが、それは日本にいながらでも向こうにいる以上に勉強できるということです。つまり、要点を集中することによって、かえってネイティブスピーカーが周りにいなくてもより効果のある勉強が出来るとわかりました。たとえば、いろんなすばらしい英文が学習参考書に載っていますが、それを毎日シャドーイングや音読することによって、アメリカとかにいる以上に勉強になります。向こうにいてもアカデミックな会話が毎日トレーニングとしてできるなんていうことはほとんどありません。既にそのレベルに近い人は大丈夫かもしれませんが。日本にこんなにすばらしい英文(通常の会話よりよっぽどためになる英文)がいっぱいあるのにそれを活かさないのは本当にもったいない。ちゃんと活かせば向こうにいる以上にためになるのにってつくづく思います。海外経験のない通訳者が多いのもうなずけます。現地滞在は語学習得のためではなく、別の目的でおこなうのがいいと思います。

よく言われることですが、上達するには日々の筋トレだと実感しています。まわりに英語を話す人がいなくても音読トレーニングをすれば現地の日常会話など話にならないくらいの英文と接っして身に染みこませることが出来ます。私の場合もともと国語力がないので時間がかかることはわかっていますが、”継続は力なり。”ということは最近実感しています。ただ、この実感はアメリカでのことがあったからこそ感じることなのかもしれません。
今年は上達度のモノサシとして英検やTOEICを受けてみる予定です。
そして、実践の場を意識的に作り、入り込んで行きたいし、“実践の海”で“気持ちよく泳げる”ようになりたいです。

5.05.2009

『グラン・トリノ』 『レイチェルの結婚』

『グラン・トリノ』というクリントイースト・ウッドの映画を見ました。
すごい。監督・主演の歳を考えるとなおさら。多分80歳に近いと思います。
彼の映画に多いと思うのですが、暴力で物事を解決しなければならないある人物の心理状況を作り出して、その結果生じるかけがえのない人の死からその人の死の意味や尊さを思わせる内容になっています。死をもって愛する人、隣人のために戦うと同時に自分のトラウマに対して償う。社会生活に合わせることが下手だけれども純粋な良心を心の底に持ち続けている人。グレーゾーンで自分を誤魔化して生きなければならいことも多いけれども、それはその人の心の底にあるものを捨ててしまうことではあってはならない。純粋な部分で人生をあきらめるということはもはやある意味で死んでいるのと変わらない。生きてはいてもお金や物、社会的地位を中心とする(それらに振り回される)人生となってしまう。心に傷のある人、人生の意味を考える人はそれで誤魔化して生きていくことは出来ない。死ぬときに、それまで心の底にあり続けた本当の気持ちにたいして後悔したくないし、できないから。
『レイチェルの結婚』という映画も心に深い傷のある若い女性の話で、お姉さんの結婚式を通して、当たり障りのない見てくれ中心(主人公の目からはそう見えたのではないでしょうか)のソーシャルライフと自分のトラウマから逃げられず葛藤し生きていくことを対比している映画でした。
外見と心の内面とどちらを人生の中心に置くのか。どちらか一方だけで生きることは出来ませんが、人生の中心となる方をないがしろにすることはできません。『グラン・トリノ』のように命を懸けてでも貫き通す気持ちが人生を輝かしいものにするし、死ぬ時期に自分の人生をポジティブに眺めることが出来ると思いました。