5.10.2009

Learning English は筋トレから

英会話が初心者レベルにある人はどうやって勉強していくのがベストなのでしょうか。特に、日本語であれ読書の苦手な人、国語力に自信のない人であっても英語を身につけたい人はどうするのがベストなのでしょうか。もちろん人それぞれ自分のやり方を見つけていくのがいいのですが。

私は4年半ほどアメリカに滞在したことがありますが、私のコミュニケーション能力の貧しさもあって残念ながら英語はそれほど上達しませんでした。もちろん、日々の最低のコミュニケーションは大丈夫になりましたが、挨拶程度に近いというかその範囲を超えたもっと意味のある会話を無理なく出来るようにはなりませんでしたし、聞き取りも出来ませんでした。実践はあくまで実践。数年の滞在を経験する機会があっても、無計画な実践の積み重ねでは効果は非常に少ない。具体的な目標と地道なトレーニングがなければ実践で活きることは出来ないということを身をもって証明してしまいました。 実際、英語が出来なくても生活に困るということは少ないですし(ストレスは溜まりますが)、滞在して10年以上でも、特にラテン系の人たちに多いのですが、英語が出来ない人が大勢いました。そういう意味でもアメリカの大きさ、懐の大きさがわかります。

当初、会話のぜんぜん出来ない私でもアメリカに1年いるだけでいわゆる”ペラペラ”になれると思っていました。しばらくして、そこにいるだけではだめだ何かしないとと思ってもどうしていいのか分からず、いっしょにいた友達の強い勧めで分けの分からない実験音のような音だけのCDを一緒に買ったりして、それを聴いていれば英語が聞き取れるようになれると信じてやってみたり(たとえ信じていなくて半信半疑でも、そんな魔法のようなものがあるのならと)したこともありました。そんなわけで、英語の勉強という意味ではいわゆる上滑り状態、空回り状態に終始陥っていました。

日本に帰ってから初めて英語というものの勉強の仕方(文法とか会話法とかではなく)が書いてある本を読んでみました。書いてあったことの一つに、例えば語学留学は遠回りというか意味があまりないとはっきり書いてあり、私の滞在経験から感じたことがそのまま書いてありました。滞在自体は自分の人生の新たな起点としてかけがえのないものとなりましたが、大きな目的の一つであった英語を身につけるという意味では、事前にしっかりそういったことを調べて置かないといけないと思いました。 準備期間を作らず渡米したのは良くも悪くもって感じです。

とは言っても、英語を話す上での土台みたいなものは少しだけは身に染みているようですので、それを無駄にしないように今自分なりに定評のある本を読んだりして、”身に付ける”ということにフォーカスして合間の時間に少しずつ勉強しております。

最近思ったことですが、それは日本にいながらでも向こうにいる以上に勉強できるということです。つまり、要点を集中することによって、かえってネイティブスピーカーが周りにいなくてもより効果のある勉強が出来るとわかりました。たとえば、いろんなすばらしい英文が学習参考書に載っていますが、それを毎日シャドーイングや音読することによって、アメリカとかにいる以上に勉強になります。向こうにいてもアカデミックな会話が毎日トレーニングとしてできるなんていうことはほとんどありません。既にそのレベルに近い人は大丈夫かもしれませんが。日本にこんなにすばらしい英文(通常の会話よりよっぽどためになる英文)がいっぱいあるのにそれを活かさないのは本当にもったいない。ちゃんと活かせば向こうにいる以上にためになるのにってつくづく思います。海外経験のない通訳者が多いのもうなずけます。現地滞在は語学習得のためではなく、別の目的でおこなうのがいいと思います。

よく言われることですが、上達するには日々の筋トレだと実感しています。まわりに英語を話す人がいなくても音読トレーニングをすれば現地の日常会話など話にならないくらいの英文と接っして身に染みこませることが出来ます。私の場合もともと国語力がないので時間がかかることはわかっていますが、”継続は力なり。”ということは最近実感しています。ただ、この実感はアメリカでのことがあったからこそ感じることなのかもしれません。
今年は上達度のモノサシとして英検やTOEICを受けてみる予定です。
そして、実践の場を意識的に作り、入り込んで行きたいし、“実践の海”で“気持ちよく泳げる”ようになりたいです。

5.05.2009

『グラン・トリノ』 『レイチェルの結婚』

『グラン・トリノ』というクリントイースト・ウッドの映画を見ました。
すごい。監督・主演の歳を考えるとなおさら。多分80歳に近いと思います。
彼の映画に多いと思うのですが、暴力で物事を解決しなければならないある人物の心理状況を作り出して、その結果生じるかけがえのない人の死からその人の死の意味や尊さを思わせる内容になっています。死をもって愛する人、隣人のために戦うと同時に自分のトラウマに対して償う。社会生活に合わせることが下手だけれども純粋な良心を心の底に持ち続けている人。グレーゾーンで自分を誤魔化して生きなければならいことも多いけれども、それはその人の心の底にあるものを捨ててしまうことではあってはならない。純粋な部分で人生をあきらめるということはもはやある意味で死んでいるのと変わらない。生きてはいてもお金や物、社会的地位を中心とする(それらに振り回される)人生となってしまう。心に傷のある人、人生の意味を考える人はそれで誤魔化して生きていくことは出来ない。死ぬときに、それまで心の底にあり続けた本当の気持ちにたいして後悔したくないし、できないから。
『レイチェルの結婚』という映画も心に深い傷のある若い女性の話で、お姉さんの結婚式を通して、当たり障りのない見てくれ中心(主人公の目からはそう見えたのではないでしょうか)のソーシャルライフと自分のトラウマから逃げられず葛藤し生きていくことを対比している映画でした。
外見と心の内面とどちらを人生の中心に置くのか。どちらか一方だけで生きることは出来ませんが、人生の中心となる方をないがしろにすることはできません。『グラン・トリノ』のように命を懸けてでも貫き通す気持ちが人生を輝かしいものにするし、死ぬ時期に自分の人生をポジティブに眺めることが出来ると思いました。